大岡昇平bot

「人生の師」と出会いたいなら

みんな他者の考えてることになんか興味がない。家族間では余計にそうだ。

大岡昇平『舞妓』

 しかしお客の方では、彼女たちを一人の人間として見ないことは、昔とかわりはない。まあほんとに可愛いわね。一体なにを食べて生きてるのーーなんて言う女客もいるにちがいない。いつもは客に見せる顔をつくり、お客の「舞妓はん」のイメージに合った動作をしていなければならないのである。

 この小さな頭の中に、どんな考えが渦巻いているか、彼女たちをただ眺めるものとしか見ない者には、わからない。

『源氏物語』が千年以上読み継がれているのは、平安時代から現代に至るまで数多くの注釈書が作られたから

大岡昇平『常識的文学論』

 こう考えて来ると、ある作品を賞めたか貶したかは、実は問題ではないので、文学を常に読者の前に現すのが、文芸時評の役目ではないのか。

大岡昇平『成城だより』

 いっしょに芝居をしたことあり、富永次郎、Kに惚れてしまった。貰った手紙を見込があるか、と鑑定を頼まれたことあり。「髪をすいていると、だんだん緑色に光って来て、気が静まって来ます」とあり。「この女は、ちょっと気をつけろ。ナルシシズムを見せつけるのは、お前さんに気があるのではなく、気を持たせてるだけだから」と忠告す。果たしてその通りとなる。「白痴群」に次郎の失恋詩の多きはそのためなり。しかしこの手紙の文句悪くなかったから、拙作中に二度使った。

大岡昇平『文学表現の特質』

 作家の性格、記憶、志向、経験、要するにその生活史のすべてが、彼の文体を形づくるのである。それは他人はもちろん、当人も、厳密にいえば、変えようのないものである。しかし作品はもちろん文体だけから成り立っているものではない。その選ぶ素材、テーマ、モチーフにおいて、彼が生きている社会の、それが書かれた時点における、現象の諸相、歴史が参加しているのである。それはいかにオリジナルであろうとも、彼が使う言語を条件づけている。戦後の日本における「民主主義」という言葉の多義性を例にとってもよい。もっと日常的な言語においけも認められることである。

大岡昇平『文学の可能性』

 まず小説が人間の願望の物語による実現である、という前提から出発したい。(略)

 わが国におけるそのはじまりを(略)一応『源氏物語』あたりにおくとすると、すぐほかの書かれたもの(詩、論文)にはない、一つの作用が認められます。それは読者に物語中の人物のように生きてみたい、という願望を起こさせることです。

大岡昇平「悲しい老人」

 実は私は去る11日、新宿に出て、下りの階段を踏みはずし、腰骨を打ち、以来十日間、寝たきりになった。食事もベッドで取ることが多くなり、それだけ老妻に世話をかけることが多かったので、看病疲れの老女の自殺にショックを受けたらしい。

 心やさしき子供がいることだし、わが家にそんなことは起こらない、と信じている。しかし敬老の日に自殺する老人のニュースばかり聞くのはつらい。国家が世界一の長寿国になろう、としている日本の老人の世話を家族におしつけるつもりなら、敬老の日なんて偽善的な祝日はやめてしまうーというわけには行かないか。おしつけのため作った祝日かも知れないのだから。